おはようございます。
只今、朝の6時半。
私は、昨年5月から
私と主人の分の毎日3食自炊が日常になっていますが
ここへきてお弁当作りの要領が
つかめてきました。
9か月も断っているのに。汗。
と言いますのも、
主人は建設業を営んでおりまして
肉体労働者ですから、お昼時間は真剣勝負。
現場環境は案件毎に異なり、
現場がどでかい工場となれば
作業場から指定された車両駐車場まで遠く、
冬のこの時期であれば
作業場から凍えながらセキュリティがあればそこを通過し、
車に乗り込む。
もし、お弁当を持参していなければ、
わざわざ買い出しに出なくてはならず、外食も同様、
現場が現場だけあって、
移動だけでお昼の半分以上の時間が潰れます。
そもそも現場の方々は早食いなので
実際食している時間は15分もかからなかったとしても、
移動でランチタイムの時間の半分以上がつぶれてしまったら、
身体や目を休める時間がその分少なくなりますので、
疲労を抱えたまま、午後からの作業へと向かうことになります。
仮に、朝、現場へ向かう途中にコンビニで購入し、
車の中に保管し、その場でお昼を取ることも可能ですが、
食べる時は、冷たい。
(コンビニのレンジで温めてもらい、保温ケースに保管すれば、温かく頂くこともできます。)
ということで、冷え込む冬の時期は
保温性のあるお弁当箱にしましょう、となりまして
夏のバージョンとボックスが変わり
私のお弁当作りの要領が若干変わるんです。
なので、11月から新弁当箱が登場してから
私なりに四苦八苦して
ようやく今のスタイルへ落ち着いたというわけです。
どんなことかと言いますと。
1段目は、おかずスペース。
仕切はないので、小分け出来る小物を活用して
メイン+焼き物1品+野菜炒め1品の
計3品目は入れるようにしています。
なにせ限られたスペース。
なるべくバランスの摂れた複数の野菜たちやおかずを
ぎゅーぎゅーに詰め込みたい。
限られたスペースだと思い込んでいたのに
実際は、結構な量がはいるんですよね。
野菜たちによっては、火にかけると水分が出きって、
ちんちくりんに縮むことがあり、
私が計算を間違えた時は、悲しいくらいすかすか。
その日は、主人から苦情がはいりました。笑。
2段目は、お米スペース。
パンパンに詰めれれば、
なんと、どんぶり1杯くらい入ります。
(敢えてこのサイズを購入しています。もっと大きいタイプも売られています。)
お腹空くだろうと調子に乗って詰め込んでいた時があり、
彼のお腹周りがみるみるふくよかになっていったので
そのへんの微調整をしつつ、
お米+手作りかつお梅小さじ1+御酢の物か卵焼きを
いつも詰めています。
3段目は、御汁スペース。
味噌汁、時々、カレーやシチュー、というスタイルが
ほぼほぼの献立です。
この3段を
保温性のあるアルミ製の容器にいれるのですが
アルミ製は、金属なので、手で触ると外気と同じ温度。
朝のキッチン外気は
2度程度なので、容器はきんきんに冷え切っている。
なので、
焼きモノ用の電化製品の上に置きながら
他の料理をしていると、
おかずが出来上がった頃には
その容器がちょうどよい按配で温まってくれているので
それに保管するようにしています。
こうして朝の時間は
私と朝食&お弁当の対戦になっているわけですが
1分でも長く寝たいがために、30分におさめておりまして。
となれば、事前準備がかかせません。
要領が物をいう。
こんな格闘を朝っぱらから
一人でやっていまして、
対戦を無事に終え、後片付けや、翌日の事前準備を終え、
6時半に、ようやく一息つける、という
パターンができつつあります。
「お弁当箱をフロントガラスの辺に置いた俺が悪いんだけど、
それにしても豚バラを使ったおかずは脂が白く固まっていて無残だったよ。
あと、時々登場する、すかすかの野菜炒めは正直悲しいもんがあるけれど
その日をのぞけば、ほぼ満足です。」
今のところ、主人からは
このような反響をもらえているので、
一先ず良しとしています。
これは私の日々の生活の中で
四苦八苦しながら、何を最優先にすべきか、いつも目の前の優先順位と、
お弁当に対する思いの結果、形になったパターンですが、
えらそうなことは何もない、といいますか。
世の中、
自分と子どもたちや、同居している家族の分もきちんとこしらえ、
その後、電車に乗って毎日通勤している主婦の方もおられ、
しかも、食費をシビアにせざるを得ない家族構成がある方もおられると思うと
素直に感服です。
時には、前日の夕食の残りを入れたり、
購入しておいた惣菜を入れたり、
冷凍やレトルト食品をうまく活用するなど
人の数と同じだけ、工夫や在り方があるかと思います。
これを
’好き’という感情にあてはめて考えてみますと
自分が選択しているすべての行動は、
何を好きか、という素直な自分の感情が働いているからこそ、
続いているわけで、逆に
嫌で嫌で仕方なければ、続きません、というか、
そもそも嫌なことは手もつけません。
そこを今日のブログタイトルの
’あえて見ようとすれば待っている好きの先’
と自分なりに考えてみます。
私は、都内永田町である機関のボランティアをしていた時や、
新橋でOLとしてアルバイトをした時や、
那覇で、ある組織に属していた時にも
勤務先の近辺には、
お手頃な料金でバランスの摂れたお弁当が沢山売られており、
よくお世話になっていました。
都内のお昼のお弁当合戦は凄まじいもので
会社が多い、山手線内のお弁当事情は
各エリア事の人種を見事に反映させたお弁当の種類となり、
クオリティはかなり高い、と振り返っています。
↑ 「お弁当屋じゃないから、お弁当は基本受けないから!」
という亭主のコンセプトを図々しく無視して、
たびたびこのブログに登場している私たち夫婦の縁を繋げてくれたお友達が
作ってくれた1000円のお弁当。
沖縄本島の読谷と岡崎市にある’ジャム’という
レストランで修行を積んできた友人で、
おかず1品1品手が込んでいて、中でも
ハンバーグは熟練の味を堪能できます。
私と主人は、そのお友達のバーへよく飲みに行って食しているので
味は知っていますが、
実母は、これで1000円って安くない?というほど感動していました。
時には、
自分の手を休ませるための時間を造ったり、
貴重な情報収集としてプロのお弁当を買ってみると
新しい発見に出あえるもの。
しかし、あくまで、
自炊が基本にあるからこそ活かされることであって、
逆に、自分を最優先にして
自分の寝たい時間を第一優先。
手間を極力避けたい。
お弁当作りに充てる時間を他の時間に使いたい。
この生活スタイルでいると、
お弁当を買っても、ただ、美味しい、としか
感じられず、新しい発見とはならないのではないのかと。
当たり前。
マンネリ。
感動が薄れ、飽きてしまう怖さが
ここにありますね。
私が作るより、
ぜったいに美味しいプロのお弁当。
お世辞抜きに絶品のお弁当だったという記憶の中で、
永田町に並んでいたお弁当たちは
料亭のようなおかずだったなあと今でも印象深いですが
これも、自炊が基本にあるから、
思い起こせるものだと思います。
私は過去に
’すべてをプラスにしか受け止めない’
を徹して、長らく過ごしてきました。
すべてをプラスにしか受け止めない。
凄くないです?
負の感情を持たないないんですよ!
しかし、悲しいことに、ここに私の感情は死んでいます。
仕事のトラブル、
人とのいざこざ、
体調不良、
恋愛関係のもつれ。
こんなことが続けば、さすがに落ち込みます。
しかし、感情が死んでいますので
すべて自分には必要だから起こっている現実であって、
人は人、私は私、だからすべてを肯定的に捉えようと
頭の中できっちり切り替えるように訓練しました。
結果、何を好きで、何が嫌いか、という感情は
基本無くなりました。
魂が無い状態、とも言えましょうか。
実はこれって、
おぞましい’人生の落とし穴’がぱっくり口を開いている状態だと
今では冷静に見ている自分がおります。
なぜ、感情に蓋をすることが
おぞましい、人生の落とし穴なのか。
たとえば、自炊。
要領をつかむまでは、
準備に1時間半かかったところからスタートしています。
時間がかかれば自炊すべてが億劫になっていきますので
何をすれば手間を分散し、時短できるか、
実母や主婦友達に予め聞いて周っています。
おかずは材料を購入したときに冷蔵庫へ入れる前
小分けにして保存しておくと
料理するときは電子機器にかけるだけで完成するから楽だよ。
とか。
材料は前の日に予めカットしておくと早いよ。
とか。
生肉を調味料で漬け込んでおけば、使い切るまで腐らず美味しく食べられるよ。
とか。
葉野菜は、先に火にかけておいて、冷凍して置けば、枯れずに使いきれるよ。
とか。
そうやって収集した情報を
まずは素直にやってみた。
すると、自分のキッチン事情や冷蔵庫の容量から、
できること、できないこと、やりにくいことが見えてきて、
収集した情報から、自分が取り入れやすいやり方が
自分の中で自然に取捨されていった。
あとは、自由なアレンジをミックスして、
毎日、繰り返す積み重ねたことによって、
今のスタイルへと築いていきました。
自炊においてはまだまだ青二才の私成りの解釈としては、
この一連の流れを積み重ねた暁に待っているのが
継続は力なり、なのではと思っています。
なぜなら、前述に登場したお友達のハンバーグは
どれだけ想像を膨らませて、何度手作りで再現してみようにも、
あの舌触り、あの旨みは素人の私には出せません。
仕事一つとっても、人間関係も、健康管理も、恋愛も、
人それぞれ感じ方は違うように
人の数だけ、そのスタイルがあり、
だから、人と違っているのは当然です。
プロはプロ。素人は素人。
しっかり住み分けが成り立っています。
まずは、ここが前提。
しかし。
仕事で失敗ばかり続き、上司に叱られ落ち込んだり、
理不尽な矛盾、滑稽な人間関係にもまれて傷ついたり、
体調不良に陥ったり、
パートナーとの喧嘩で落ち込んだり。
傷つき、落ち込み、自分の中から自信をどんどんと失っていき、
押しつぶされそうなネガティブな負の感情で身動きが取れなくなった時、
人って、痛みを避けるか、痛みと向き合うか。
まず、これを試されます。
真ん中はありません。
仮に、
人から怒られたことがない、
人から褒められたことしかない、
自分が一つの継続によってある程度の地位、名誉、周りからの称賛を得て
力を持つ立場に立ってしまうほど、
痛みと向き合うことが難しくなります。
なぜなら。
人から怒られない行動をしているのは自分です。
人から褒められるような恵まれた環境にあるのは自分です。
その地位にそこまで登りつめたのは、地道な努力の結果です。
だからこそ、
誰かに自分を否定されたら、築いてきたすべての自分の在り方を
真っ向から間違っている!と潰されますから、
当然反発が起こるわけで、冷静に向き合うことが困難になり、
「それはあなたの考えでしょ。私とは世界は違うの。」
と線を引いてしまえば、
多少は不快感はあるでしょうが、
受け流し、痛みを避けることができます。
でも、ここに
人生の落とし穴が口を開いています。
否定されれば落ち込みます。
間違っていると言われれば傷つきます。
悟りを開いた雲の上の尊い方でなければ
これって、誰しも自然に起こる感情かと思うのですが、
痛みを避けてたはずなのに、やはり痛い。
そうなると、人はさらに、
痛みを避けようと藁をもすがる思いで
何かをつかみます。
それが、偉大な人の教えや、
自分が目指す道で成功している人とまったく同じ道を歩むことを正しい道を
自分の指南にしたり、
占いや、依存に走る。
自分の経験値ではない何かを塀にして
自分の前に立ててしまえば、
痛みに触れることなく、
自分を守ることができます。
「人は痛みを避け、快楽を得る。」という
逃げの仕組みです。
快楽を得るために、ひたすら痛みを避けてさまよい、
今回だけ、今回だけだからと
軽い気持ちで手を出したドラッグやお酒だったはずなのに
気が付くと、抜けられない状態に陥る。
これをやめられない。という
1つの執着という考えや習慣も同様で
それが買い物だろうと、煙草だろうと、
自分の金銭の範疇を超えてしまい
支払いが回らないのに周りに迷惑をかけ続けているのに
それでも買い物がやめられなくなったら
それも依存だということを理解したときは、
正直、鳥肌が立ちました。
恋愛もそうだったとは。
これも、感情が死んでしまった自然な成り行き、とも捉えられます。
あくまで主軸は自分にあり。
第三者を主軸にしたとき、感情は死んでいくのかもしれません。
もし、自分の主軸が自分にあるのか、
第三者にあるのか確かめたいときに
自問自答できる方法としてたとえてみます。
「あれだけ約束したのに、なぜ、約束をやぶったの!」
「やるって言ったのに、なぜ、できていないの!」
これ、身近で交わされる会話かと思いますが
語り手が自分だろうと、家族だろうと、パートナーだろうと、職場の人だろうと、
この会話は、
自分と人は違っているのが当然、
という前提が欠けていることに
気づけませんでしょうか。
今の私だったら、
こう自問自答しています。
約束を交わしたけれど、約束の概念は人それぞれ。だから
まず約束という相手の在り方を確かめてみよう。
そして、約束をやぶったら、どうなるのか、先の見方をどう捉えているかも
確かめてみよう。
後者も同様です。
もし、
自分を否定する人が目の前にいたとしたら、
私ならこう考えています。
相手の肯定はだろう?逆に私の肯定は?
なぜ今、このタイミングで相手は否定しているのだろう?
私を否定したことで、相手は何を得るのだろう?
このやり取りの先には、何が待っているのだろう?
上からも下からも横からも
中からも、多方面からとことん、考え、
冷静に質問を投げます。
相手が感情的になっていたら、中々、冷静になれませんが、
相手の本質は何かをじっと向き合おうと、痛みと向き合います。
あくまで主軸は自分にあるので、
相手の主軸との相違を確かめるんですね。
しかし、主軸が第三者の受け売りだった場合、
自分の意図しないトラブルには
指南書と脱線するため、相手が悪い、となってしまいます。
だって指南書はこう記しているから。との如くに。
当然と言えば、当然なのですが
第三者の在り方は、あくまで第三者の経験値から見出された在り方であって、
必ずしも自分と同じとは限りませんので、
相手が悪い、としかと捉えられなくなるのは、ある意味、
自然な感情なのかもしれません。
しかし、確実に、
人生の落とし穴にはまり、抜けられなくなっている状態とも
受けて取れます。
誰かに叱れたり、
自分を否定された時、
そこから目を向けず、心を傾けず、無視して痛みを避けるより、
自分の非を受け入れ、認め、痛みと向き合うことは
人生で何より、難しいことだと
これまでの経験からはっきりしました。
それから、
’好きか、嫌いか’
’心地よいか、心地悪いか’
自分の感情に素直に心を傾けようと切り替えたことで
自分自身にも鮮明になりましたし、
私の周りで、人生の落とし穴にはまって動けなくなっている人がとても多いことが
浮いてくるように見えてしまい、実は驚愕としました。
これは私の中の在り方であって、
人それぞれ感じ方が違うように、人の数だけ、そのスタイルがあり、
だから、人と違っているのは当然ですから、
敢えて、口にはしません。
心の中で、余計なお世話ながら、
もっと、楽に生きればいいのに、と遠目で見ています。
結局は、
目の前にある仕事なり、人間関係なり、健康管理なり、恋愛なり、
自分が好きでその道を選んでいるのか、
感情を殺して打算的になっていないのか、
それとも嫌だと感じているのか、
まずは、自分の素直な気持ちが何なのか
自分の中でオープンにすることがとっても大切なのかと思います。
周りを見渡し、「情の深い人だ」と言われる人たちは
主軸は自分の道を貫いて生きている人たちです。
第三者の指南書をそっくりまねることを良しとして
疑わない姿勢は、ある意味、とても真面目な方なのかもしれません。
自分の中に、しっかりこびりついた第三者の固定概念の縛り、
殺してしまった感情。
これを取り除くには、新たな習慣を自分に取り入れ、
毎日少しづつ習慣を変え、淡々と積み重ねていくことでしか解けないんだと
実体験から、私は胸を張って、それは正しい在り方だとお伝えできます。
しかし、どこかのタイミングで、
自分が身動きが取れなくなっていると気づけたほうが
もっと自分らしく、気持ちよく、過ごせるのになあと
感情にしていた蓋を外したからこそ、ようやく、思えるようになりました。
そして、今の私はほんと、気楽に在りますし、
他人との相違は自分の想像を超えますので新しい発見の連続。
いろんな意味で、感動の連続です。
まるでしょっていた鎧をひとつづつ、脱いでいるような感覚と言いますか。
身大の正々堂々とした自分の軸をもった姿がどんなのか分かったことで
自分の道が1本に定まり、
私の考える美の在り方へ
自然に目を向けられるようになりまして、
こうして、ブログを活用して
整理するという今日に至っています。
素直に好き、という感情が
どれほど大切なことなのか。
感情を殺さず、蓋をせず、
好きという気持ちに素直になったらこそ、
何度かこのブログでも紹介していますが
ようやく人生で初めて、
豊かってこういうことかな、
幸せってこういうことかな、
と感じられるようになりました。
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