隠し味、少々。

2022年02月09日

母、大腿骨転子部骨折から1か月、後編。・・

66.jpg

画像;歩行のリハビリがてら
売店を歩く退院2週間後の母。

前回のブログ

に続いています。

※今回のブログも
記事内には読みにくい、
または人によって気分を害される内容が
あるかもしれませんので
すべて事実ではありますが
不快にさせてしまうようでしたら
読み飛ばして下さいね。





母が転倒してしまい
自宅療養の
5日間が経っていました。

途中、体調不良に襲われるも
自力で復活でき
ようやく
近所のA整形クリニックへ
かかることができました。

母の骨折は
正しくは
ひびが入った状態でした。

ひびがはいってしまった部分が
関節付近だったため
くしゃみや
咳をしただけでも
激痛が走るほどで
拷問のような痛みに5日間も
よく耐えましたねえと
いわれていました。

今の医療は
母のような骨折に
金属を骨の中心と
その軸部分を垂直に固定させるねじを差し込み(骨にくぎを刺す)
固定させることで
自然に骨がくっついてくれるまでを
補強したり
支え代わりにする手術を勧められました。

表現が難しいですが
先生にとっては
手慣れた手術だったと
医院長兼担当医の先生が
元々大きな病院で
執刀医されていた経験談を
教えてくれました。

そのくらい
患者さんが多いとか。

しかし、
当然手術を受けた場合のリスクもありますし、
逆も然り。

先生が強く主張されたのは
手術を受けるリスクより
受けない場合に
耐えなければいけない
寝たきり生活約1か月(骨が自然にくっつくだろう期間)の方が
骨がいざ元に戻り
さあ、歩こうとしたら
二度と歩けなくなるほど
衰える恐れがあること。

元々元気な人が
突然二本足歩行を断つと
筋力が衰えるだけでなく
内臓機能にも影響が出てしまうし
肺炎など
呼吸系の合併症の危険性も高まり
命にかかわる
問題になり得る。

なので今の医療では
一日でも早く歩行することを最優先の課題に
しているとか。

ただ残念ながらこの先
手術後の生活は
一変してしまうかもしれません。

骨より固い金属を体内に入れるため
万が一強い衝撃がかかれば
柔らかい骨は
簡単に砕けてしまう。

金属の接触部の感染症や
合併症の危険性も
常に隣り合わせ。

患者さんが若ければ
金属を抜く対処もあるそうですが
母のような年齢層は
その後の手術の身体への負担を考え
体内に入れたままが主流。

身体への負担は
私の想像を
遥かに超えていました。

すべての説明を聞いた
母は言いました。

たとえ
自分に
杖あり人生が待っていたとしても
また自分の足で歩きたい。

あれほど
頑なに病院へ行きたがらなかった
意地はどこへやら。

B病院へ整形外科手術入院

こんな流れで
A整形クリニックから
B病院の紹介状を
発行してもらいました。

母を乗せて
病院を移動し
B病院へ着くや否や
受け付けで母は
すぐ様
車いすに乗せられました。

担当の看護士さんの誘導で
私の夫が付き添い
いくつかの検査を
周り始めるとのことでした。

私は別行動で
執刀医面談・・・。

どんな手術をして
手術中の万が一のトラブル対策や
手術中や、術後に考えられる合併症や
回復までの計画などなど
説明と数枚に渡る
手術の同意書へ
サインをしました。

サインが終わったその足で
母の元へ
合流しました。

血栓塞栓症防止の靴下をはかされたり
点滴用の注射を打たれたりして
大人しく身を任せる母。

その部屋にも
沢山の患者さんがおられました。

大都市でもないのに
あれだけの方が怪我をしてしまって
いるんだなあと
驚いてしまいました。

夫がそばにいてくれたおかげで
相当心強かっただろうなあ。

母は看護士さんから
認知症の有無を
チェックされていました。

手術後のリハビリに
大きな影響が出てしまうため
病院側が
もっとも注意を払うところです。

いよいよ
しばしのお別れの扉の前まで
着きました。

退院まで
一切会えません。

「じゃあ、あの世でまた会いましょう。」
なんて冗談を交わしたほど
どんと構えた母ふらふら

しばらくの間
母の顔を見ることも
母の顔を見ながら話すことも
できないもうやだ〜(悲しい顔)

母にとっては
40年以上ぶりの外泊、
入院生活の始まり。

家族にとっては
40年以上も自宅を
一日も空けたことがなかった母の
不在生活の始まり。

バタバタと
周りだけが
動いていきました。


;いよいよ手術

家族が出来ることは
もう何もなくなりました。

あとは、B病院に委ねるしか
ありません。

そのまま病院を後にして
夫と遅めのランチを頂きながら
気が気ではなかった私に

「お母さん、
冗談言うくらいだから
ぜったい大丈夫だって。
俺はまったく心配していないよ。」

夫の言葉に
励まされつつ

大出血が起こり
輸血になってしまわないか。

輸血が原因で・・・最悪なことが起こってしまわないか。

血栓塞栓症になってしまわないか。

麻酔の副作用が起こってしまわないか。

手術のトラブルで○○○○・・・。

どうしても
ネガティブが
頭の中を支配していくたらーっ(汗)



;手術後

それから2時間後。

執刀のお医者さんから
直接私に
電話が入りました。

手術中
大出血もなく
無事に成功したこと。

年齢が故の心配していた
骨粗鬆症は無く
むしろ丈夫な骨だったこと。

手術で
新たに骨粗鬆症が発覚することもあり、
そうなれば
骨折プラスの治療対象となり
本人も苦しいだろうし
家族も相当
悲しい思いをすることでしょう。

一先ずほっとできましたが
術後の合併症の心配からは
しばらく解放されません。

ちなみに
タイミングが悪いと
手術を待たなければいけない。

その場合、
手術待ち入院を
しなければなりません。

朝9時自宅出発→ 11時A病院からB病院へ→ 16時手術終える

トントン拍子に事が進んだ母は
幸いだったのでしょう。


;手術入院の始まり

手術当日と翌日は安静に過ごし
翌々日にはすべての点滴が抜かれ
抜糸でした。

抜糸を無事済ませたら
すぐにリハビリが
開始されました。

といってもB病院は
リハビリ専門院ではないので
簡単なマッサージや
歩行リハビリが内容とのこと。

このリハビリをこなしつつ
再転倒しないため
母は看護士さんの
サポートがなければ
ベットからをも
動けない
行動を制限される生活の始まりです。

執刀医の先生の話では
その期間は10日〜2週間。

その後、リハビリ専門病院への
転院予定でした。

ちなみに
入院するに差し当たり
頭の先から足の先までの
検査が母にはありました。

万が一を考えての
病院側としては然るべき対処でしょうが
無償ではありません。

後日、請求があるのに
家族に確認のないまま
流れ作業のように
行われていました・・・。

この検査によって
何かしらの疾患が
見つかる患者さんは
少なくないとかで
冷や冷やしてしまいました。

普段偏食極まりない母なのに
おかげさまで骨折以外
すべて健康体でした。

これも幸いなり。



;転院の手続き

年内が転院か・・・

執刀医の先生から
面談ではそう聞いていました。

術後数日が経ち
リハビリも始まってきたようですが
待てど待てど
病院側からは
何も打診されません。

術後5日、
こちらからようやく
声をかけてみたら
B病院が
転院の手続きに
動き出すというたらーっ(汗)

こんなもの??

B病院には
退院支援員という
患者家族と事務的な手続きをサポートする
スタッフさんがおられます。

私が家族を代表して
その方とやり取りをしましたら
なんとなんと。

年末年始の5日間、
すべての手続きがストップし
看護士さんもかなりの数が
お休みに入ってしまうとか。

抜糸後から毎日始まっていた
リハビリもストップ。

きっと
リハビリで頑張っていた頃でしょう。

母のような様態が
再び1週間近い
寝たきり生活を虐げられるって
身体に答えないだろうか・・・。

どの担当スタッフさんも
皆さん親身になって
対応してくださって
本当に感謝していますが
この仕組みに
不信感が・・・たらーっ(汗)



;母にスマートフォンを渡す。

体調はどうか、
病院で不安なことはないか、
欲しいものがないか。

母から直接聞きたかった。

ちなみに
コロナ化対策で
面会禁止。

病棟にある
ナースステーションから先の
病室へは進めませんでした。

フロー内にあった
待合室には
公衆電話がありましたので
連絡しようと思えばできるでしょうが
母の場合は
看護士さんの付き添いなしでは
身動きが取れません。

なので
看護士さんに声をかけ
手を止めさせてまで
母が自宅へ電話してくるとは
到底考えられず。

私は
病棟のナースステーションへ
毎日届け物を渡しがてら
看護士さんを捕まえ
伝言ゲームのように
母の状態を尋ねたり
伝えて欲しいことを伝えてもらったりして
把握していきました。

現実は
看護士さんたち
みんなかなり忙しそうでした。

正直、聞きづらかった。

質問してしまうと
仕事の手を止めさせてしまいますし
土日祝には
ナースステーションは
ほぼ無人状態くらい
最小限のスタッフさんで
対応をしている様子でしたし
休んでいる看護士さんたちの代わりに
制服の違う
臨時ヘルパーさん的な方が
仕事をしていました。

いつも通り
母の状態を質問しても
「担当看護士ではないので
詳しい状況説明は出来かねます。」
とばっさり。

やっぱり
母の口から
母の気持ちを直接
が聞きたかったなあ。

携帯やスマートフォン
持っていれば
直接話せるのにね。

端末の持ち込みは
問題なかったのですが
お年を召している方々は
どうやら持参しない患者さんが
多いようでした。

そういった患者さん向けに
B病院が
用意しているIPADで
リモート面談という
無料サービスがありました。

予め電話予約を申し出て
液晶を見ながら話す方法ですが
結局それを使用することはせず。

年内に弟が動けて
スマートフォンを
準備出来たので
届けに向かいました。

その帰り道。

速攻電話が入りました。

弟はすぐに
車内のスピーカーに切り替え
3人で話せるようしました。

第一声
「お願いだからすぐここから出して!」

母は、スマートフォンが
操作できません。

それは百も承知の上で
母にとって
着信専用電話
になってくれればのつもりで
渡していたので
はて、なぜ電話をかけられたかしら。

事情を聞きましたら
たまたま人の好さそうな
男性看護士さんが
通りがかったため
頼んで電話操作を
してもらったようでした。

人が良さそう?
看護士さんすべて人が
人が良さそうなんじゃないの?

「大金はたいてもいいからお願いだから今すぐここから出して!」

と取り乱す母。

母にとって
どうやらすべてのスタッフさんが
いい方ではなかったようです。

なんていうと
病院へのクレーム感が
強まりそうですが
母が泣きじゃくったのは
事実でして。

こればかりは
現場を見ていないので
一方的に何がどうこうは
言えませんが察するに

不慣れな入院生活のストレスで
母の虫の居所が悪い日も
あったことでしょう。

母のわがままな一面が
顔を出してしまう日も
あったでしょう。

看護士さんも
相当忙しいでしょうから
いつもご機嫌に仕事がこなせるとも
限らないですし(人ですもの)
十分理解できますし
看護士さんは
そもそもヘルパーさんではないので
ちょっとしたわがままを
言える状況でも
なさそうでしょうし。

仮に
理不尽な対応をされたexclamation
と、どちらかが
感じたとしても
そもそも私は現場を見ていません。

当の本人ではないし
仮に母がクレームしたいほどの
体験をしたならば
撮影したり
然るべき対応をすればいいわけでして
だからといって
そこまでの気持ちも
知恵もない。

どうすることもできないふらふら

入院後、1週間ぶりに聞いた母の声のはずが
ひくひく泣いて
聞きたかったことが
聞けなかったなあ電話

それでも、短い電話ながら
家族の声を聞けた母の気持ちは
ずいぶん楽になったようでした。

以降は
ほぼ毎日、届け物をしながら
迷惑を覚悟に
ナースステーションで
看護士さんを捕まえ

母は元気にしていますか?
変わったことはないですか?
傷の回復はどうですか?
今、どんな薬を服用しているのですか?

なんて
毎回聞いてたっけ。

それが聞けたのも
年内は12月28日が最後。

いよいよ
連休に突入です。

年が明けた4日まで、
つまり5日間は
端末音痴のような母は
じっとじっと
休みが明けるのを
待つしかありません。

スマートフォンを
日頃から使い慣れている方の
外科入院の患者さんなら
端末で暇を潰したり
人によっては端末で
仕事が出来たりしますね。

母のような端末音痴は
こういう時、困りますね。


;転院日の確定

いよいよ年が明け
転院の手続きが
動き出しました。

B病院の担当支援員さん→ C転院先に空き状況の連絡→ 返事待ち→ B病院の担当支援員さんから私に連絡

ここまでで
1週間、
1週間以上かかるなんて。

C転院先の空き状況が
すぐに出ないのは
仕方ないたらーっ(汗)

こうして当初、
執刀医の先生から聞いていた
B病院の入院期間
10日から2週間の予定は
大幅に狂いました。

にも関わらず
入院費の説明が
B病院から
一切何もなし。

聞けば答えてくれたでしょう。

ただ、一日入院しているだけでも
食事3食分や
入院費はもちろん
その他にかかる費用もあるわけで。

病院都合で
入院日が伸びているのに
請求に触れないのは
違和感満載。

1円のありがたみを
どう考えているのだろうと
思えてなりませんでした。

正直、表現は悪いですが
これってぼろい商売だなあ。

母が泣いて電話してきたことを
クレーム調に使い
転院支援員の方に

「なるべく転院を急いで頂けますか?」

と促してみました。

ただ、先方の空き状況がない限り
どんな言い方をしようと
どんな手段を使おうと
ダメなものはダメですね。

この時
心底思いました。

看護士さん
介護士さん
理学療法士さん
などなど専門の方々を
丸丸1か月
24時間体制で数人雇える余力が
我が家にあったらなあと。

そうした余力があれば
すべてを自分で
整えればいいわけですから。

それが出来れば
このような窮屈な思いをせず
穏やかに自宅に戻せるわけです。

残念ながら
そこまでの余力は
我が家にはないので
身の丈にあった選択しか
出来ないわけですたらーっ(汗)

こうして
転院日が決まりました。


;母が歩きだした日

転院日が決まり
たまたま電話で話せた時に
母に伝えました。

いつ退院か分からない母の不安が
さーっと晴れたような
雰囲気を
醸し出していたなあ。

ある日のこと。

「お母さん、あんたに話したいことがある。」
とナースステーションの奥の方の
廊下から響く声。

隣にはぴたりと看護士さんがついて
母が
私に向かって
歩いてくるではないですかわーい(嬉しい顔)

シルバーカーを引きながら
よろよろ
よろよろと歩く母。

術後22日目の
事でした。

いつから
地に足をつけれたのか
私には分かりません。

自宅療養を含めた
寝たきり生活を数えると
おそらく2週間以上は歩いていなかったので
歩いている姿を見れて
心から感動しましたもうやだ〜(悲しい顔)

o.jpg



;C転院先まで残す1週間の入院生活

母の歩く姿を見れた日から
6日後には
C転院を控えていました。

母にとって
転院が一つのゴールになった様子もありましたが
反面、
B病院の看護士さんの中で
たまたまご近所さんが居たりして
顔見知りもできて
入院生活に慣れ始めていた頃でもありました。

複雑だな〜。

母は、私が差し入れへ行くたびに
廊下まで歩いてきて

あれが食べたいのexclamation
これが食べたいのexclamation
食べることしか楽しみがないのexclamation

なんて元気な表情と
たくさんの注文と共に
ぶつけてきました。

看護士さんには
笑いを取る
いつものおちゃめな
わがまま母の素顔が
戻ってきた頃です。


;B病院退院日、そして清算

いよいよ退院の日が
やってきました。

B病院に預けていた母の私物は
すでに戻していました。

退院日の洋服は
前日に届けていたので
荷物は少なくて済みました。

夫と母の合流を
待合室で待ちました。

母を見るやいなや
夫はあまりに回復している母の姿に
驚いていました。

さて。

B病院の入院費は
退院日に請求書を
発行してもらいました。

支払いは
現金、またはクレジットカード決済。

清算は
当日、または後日にて。

これは前もって転院支援員の方に
相談、確認していたので
退院日に
請求書だけの発行が可能でした。

たまたまB病院だからなのか
退院支援員の方のお考えなのか
分かりませんが
私が希望を伝えていなかった時
退院日当日に
現金支払いを
求められました。

B病院でお世話になった皆さんに
深々と御礼をしながら
駐車場で
待機する父の元へ急ぎました。

1か月ぶりの
母との再会に
とても嬉しそうだったなあ。



;C転院先へ

B病院を後にして
C転院先へ向かいました。

道中、車中では
1か月間の入院思い出話を
沢山聞かせてくれました。

いろいろあったんだなあわーい(嬉しい顔)

C病院が見えてきた頃
母の雲行きが悪くなります。

「もう入院は嫌だ。お願いだから家に帰して。」

車にへばりついて
出ようとしません。

うそ、そんな展開?!

なんとかなだめ
C病院の受付へ。

受け付けで
気が狂ったかのように
帰りたい!とキレ始めた母。

父は、手がおえんexclamation
と半泣き状態。

30分くらい
だだをこねていた頃でしょうか。

母の担当
看護士さん?介護士さんが
止めに入ってくれました。

ほんと、素晴らしい仕事ぶりでした。

とっても優しい口調で
母の心をケアしながら
なだめてくれました。

母はようやく
大人しくなりました。

それからじきに
担当医の先生と
家族面談。

B病院から引き継がれたカルテを見ながら
健康状態の確認、
術後の経過確認、
そしてリハビリ入院の流れの説明を
されました。

母は小声で
「早く退院させてください。」
と添えて。

面談は5分くらいで
あっさり終わりました。

その後、待合室で待機していたのですが
再び、母ごねる。

物凄くごねる。
じきに看護士さんに車いすで引かれ
レントゲンへと移動してしまいました。

夫が私に言いました。
「お母さんがあれだけ訴え、あれだけ意思を伝えているのに
なぜ家族は気持ちを汲み取らないのか、俺には分からない。
なぜお母さんの気持ちを尊重しないのだろう。」
と。

はっとしました。


;C病院の転院から異例の事態へ

先生との面談を終えてからの
待合中は、
病棟へ父が
母の私物を届けに行っていて
私と夫は
次の指示を病院から待っていました。

夫の言った言葉は
胸を刺しました。

家族は
母のわがままな性格を
嫌と言うほど
理解しています。

たぶん、母の性格で
今自宅へ戻したら
近いうちにきっと転んでしまうでしょう。

母はそのくらい
危ない行動をしますので。

プラス
母を迎え入れるために
自宅内大掃除の真っ最中だったので
足の踏み場もないような状態。

今すぐ戻せない。

どんな事情が絡んでいるにせよ
理由は家族の都合であり
母の都合ではないところを
夫は突きました。

確かにそう。

もし、また転んでしまったら
二度と歩けなくなるかもしれない。

その可能性のが高い。

そうなれば
寿命も縮まってしまだろうし
もし退院の選択をして
取り返しのつかない事になってしまったら
家族全員が
後悔するだろう。

入院生活の寂しさや
辛さは
母以外、誰も理解できません。

・・・。

それからすぐに
父の説得にはいりました。

父は、半泣きで
母の退院を
拒びました。

理由は私と同様です。

母の気持ちを優先した先に
何が待っているのか
想像できたからです。

もし退院を選択するなら
母の見守りや
リハビリの通院、
家の掃除も
急がねばならず
すべて同時進行が待っています。

日常の生活に加えて
こうしたプラスが増えるので
負担を父だけでなく
私もできる範囲
協力するからと
頭を下げました。

こうして父は
しぶしぶ了承しました。

「俺は何があっても知らんぞ。」

看護士さんと介護士さんに
その旨を伝えましたら
嫌な顔一つせず、
即、動いてくれました。

再び担当医の先生の面談。

母の口から
退院したい希望を伝え
そのような手続きとなりました。

帰り際、
看護士さんか
介護士さんか
忘れてしまいましたが
私と二人きりになったタイミングを見計らってくれ
こう話されました。

「退院出来て本当に良かったですね。
とても珍しいケースです。
ほとんどの患者さんは帰りたいと言われますが
頼るご家族がいない患者さんもおられますし
たとえご家族がいても
患者さんの意思より
ご家族の意思が優先されるのが現実です。
面談で病院側は、なるべく早く退院できるよう
努めると伝えましたが
おそらく安全面の考慮から
1か月は退院出来なかったでしょう。
お母さんご自身の心労を考えると
退院に踏み切った勇気は素晴らしいと思います。
ご家族にとってこれからが大変かもしれませんが
お母さんの心も大切ですものね。」

聞いていて
とても切ない思いに駆られました。

家族の協力が得られない患者さん、
頼る家族がいない患者さんの
選択肢が限られる方々がおられるなんて。

人の人生って
何が暗黙を
分けているんだろう・・・。

生きるって
なんだろう。

分かっているつもりなのに
深く考えてしまいました。

※C病院に入院していたら
患者さん一人一人に
担当医に加え
看護士さん
介護士さん
医療ソーシャルワーカー
・・・あとは
何名かの
それぞれ専門スタッフさんが
入院中について下さり
至れり尽くせりです。

C病院の場合
費用は諸々の控除を引いた自費分で
おおよそ17万円くらいと
聞いています。


;退院後は娘宅へ、リハビリ通院開始

急遽退院となり
その足で4人でランチへ行きました。

「1か月ぶりのシャバのごはんだわ。」
なんて冗談言う母。

母の嬉しそうな笑みを見て
喜ぶ家族。

にしても
自宅には
戻せる状態ではないので
一先ず私と夫の住む部屋で
2泊してもらいました。

病院での1か月間は
母の生活習慣を変えました。

食事をしっかり摂り、
完食はほどほどに抑えられ
夜は21時過ぎるまで
寝ようとしません。

規則的な生活習慣を
身につけて
帰ってきました。

このままこの生活パターンが
続くといいのだけれど・・・

退院から2日目に
A外科クリニックへ
再びかかりました。

医院長は
母と私たちを見るやいやな
「あれ?退院されたんですね〜」
と覚えていました。

退院した流れを
説明しましたら
母をほめていました。

日常生活は
素人の私が思っている以上に
リハビリになっているそうです。



;自宅へ、A整形クリニックの通院開始、介護保険の申請。

2日間、私たちと生活をした後
いよいよ母を
実家へ戻しました。

少しづつ
元の生活に戻すために。

片付け途中の掃除を
やりつつ
母自身も見るに見かねて
動いてしまいました。

「私がやるから動かないで欲しい。」
と伝えても
家族には迷惑かけられないからと
動いてしまいます。

他にも
生活しながら
手を加えていきました。

寝室からトイレまでの長い距離を
室内専用のシルバーカーを購入し
移動してもらったり。

バリアフリーではない自宅の
引き戸段差を埋めるパーツを設置したり。

暗い場所には
人感知電気を
複数台設置したり。

足元にはなるべく物をどけたり。

種類別のごみ箱がばらばらだったのを
1か所にまとめたり。

なるべく手の届きやすい
狭い範囲内での生活が
成り立つようにしたり。

プラス、
介護保険の申請をしましたら
ある日専門スタッフさんの
訪問がありました。

自宅内が
母にとって
どれだけ不自由な空間なのかの
現状把握と
30分くらいに渡る
母、そして家族を代表した私の
質疑応答。

それらのヒアリングシートを元に
公的機関へ提出されるようで
約1か月後に
申請がおれば介護手帳が
自宅に届くそうです。

申請がおりた場合
どの程度の
支援、介護階級なのかも
決定されるようです。

介護保険の申請が得られれば
医療費の控除面や
自宅の介護工事の補助や
介護用具を借りられたりと
いろいろと助かります。

お役所事はこんな感じで
同時に退院した翌日には
A整形クリニックへ
リハビリ通院を開始。

母担当の理学療法士さんが
ついて下さり
その先生へ直接予約を取り
週3、
空きがあれば4日受けられます。

リハビリ内容は
都度30分で
マッサージや
歩行の訓練、
また日常生活のアドバイスや
注意すべき点のアドバイス、
心配事の相談をケアして下さったり
心のケアは大きい。

金額は
健康保険料適応内なので
1度の支払いは
1000円におつりが出るくらいです。

介護保険の申請が正式におりたら
健保ではなくなるので
担当の理学療法士さんが
変わるそうです。
(健保か介護保険か選択は自由)

これは母、複雑・・・。


;起こって欲しくない事態に。

ガシャン

ある日の夜、
弟の相談事を受けていたので
実家に居ましたら
別室で
にぶい音がしました。

飛んで音の方へ行きましたら
母が床に
片方の足のスリッパが脱げて
うつ伏せになっている
状態でした。

周りには
水たまりになっていて
割れた瓶が飛び散り、
母のどこかから
真っ赤な血が
垂れ流れていました。

足?????

すぐさま、母を起こし上げ
椅子に座らせました。

まずは骨折した足が
どうかなっていないか
確認しました。

骨折時の
絶叫はなく
けろっとした顔をしていたので
骨折経験のある弟は
たぶん大事には
至ってないよと言っていました。

出血元は
顎なのか
首なのか
そのあたり。

止血出来た後に
患部を確かめてみたら
顎下あたりに1センチほど
ぱっくり切れ、
他にも
瓶で切れたような浅い傷が数箇所。

転倒した理由が
じきに分かりました。

トイレを済ませ
なぜか面倒で
ズボンを腰まで上げずに
片手でズボンを持ちながら
台所までずりずり移動したようでした。

その状態で
これまたなぜか片手に
水の入ったボトルを持ったまま
冷蔵庫のあけにくい引き戸を
開けようとした。

足がもつれて
手元が滑り
瓶が床に落ちて割れ
水が飛び散り
そこへ転倒。

利き足の手術した側が
とっさに身を受けたのでしょう。

後日、足を見せてもらったら
膝で
衝撃を受けた傷跡があり。
手術していない側の足膝周りが
濃い紫色の
あざになっていていました。

なぜだ、なぜそんな危ない行動をするの?

もしかして何か
脳の障害始まっているの?

後日、謝ってきましたが・・・。



;手術から約1か月半、骨折転倒から約2か月。

A整形クリニックに
かかったその足で
B病院での手術入院が始まり
母にとっては
どうやら
トラウマになったそうです。

その日、再転倒してから
さぞ痛かっただろうに
痛い、とは一切語らない。

その上
痛々しい足で
ゴミを片付けようとしたり
転びそうな狭い場所を
あえて歩いたり
まだ杖が必要なはずなのに杖なしで歩いたり。

日常生活を送りたがる。

もう、私からみたら
めちゃくちゃです。

危険を孕んでいるよ。
転びやすいよ。

どれだけ声をかけ
何度も説明しても
行動を改めようとはしません。

めんどくさかったから。
まさか転ぶとは思わなかった。

これまで
数年に渡り
私は母のそばで
母の怪我を見てきましたが
どの理由もどちらか。

ちょっと危険かもなあ。
怪我しそうだから、ちゃんと身構えておこう。
私は転びやすい身体になってしまったから
頼るところは頼って自分を労わるようにしよう。

こうした
危機意識のような
自分を守る行動意欲の完全な欠落です。

母自身がこの心持である限り
この先
怪我は避けられないと
悲しいですが心の片隅では
受け入れています。

娘の私がどれだけ心配し
たくさん母と喧嘩して
相当注意を促したとしても
相手は心までは
変えられないので。


;母との距離感が一番難しい

母には、
こうしたい、
ああしたい、
とはっきりした
意思があります。

それはそれでとても幸いなことですが
私からすると
転んでも仕方ない危険行動や
偏った食生活を好む
心配事が満載。

なので
どうしてもそばで見ていると

あれはダメ。
これはダメ。
どうしてそういうことするの?

と黙っていられなくなり
私の身(心)は
ぼきぼきに折れています。

立ち直りも早いけど。

こういう場合の
家族との距離感って
本当に難しいですね。

24時間そばで
見守ってあげられるなら
したい。

でも、私にも生活があるので
すべては出来ないし
そもそも母は
そこまで私を求めていません。(笑)

(母にとって私は、がみがみうるさ過ぎるそうです^^)

リハビリには
ゆっくり気長に臨み
あとは受けられる
第三者機関の支援は受けつつ
整えられるハード面は
家族で
何度もシミュレーションしながら
整えていきたい。

あとは、日常生活で
気をつけることは
母自身で頭で考えながら
無理しない範囲で
いつも通りの暮らしを
取り戻して欲しい。



;C病院へもし入院していたら・・・。

午前1時間半、午後1時間半
土日祝関係なく
連日リハビリを
入院しながら受けられるC病院。

母がもし
リハビリ入院をあと2か月(執刀医の先生のご意見)送っていたら
どんな回復度合いで
帰宅したのでしょうね。

母にとって
家族にとって
退院の選択が
正しかったか否か。

つまり、命が続くまでの間
病院へお世話になるほどの
大怪我を
二度と起こさないのが正。

ではありますが

C病院で予定通り入院していたとて
この先の安全が確実に保障される
とも限らないしなあ。

これは
母が人生を終えるまでは
分かりませんね。

(現に、再転倒してしているしたらーっ(汗)


;転倒されて身体の不自由になってしまった、とあるご近所さんのお話。

リハビリは
本人の気持ちの前向きさが
とっても影響すると言われます。

また、元気な頃に戻りたい。

その強い思いが
行動を駆り立てる。

時間がかかるのは承知で
母には元気だった頃に
一緒に足を運んだ場所へ
連れ出しています。

顔見知りのお店に行くと
世間話出来るし。

そこで、悲しいお知らせを
聞いてしまいました。

母が良く知っている
母と同じ年の方が
転倒から身体の不自由を来たし
老人福祉施設へ
入所されたそうです。

母、相当悲しむ。

私は今、
似たような境遇にいるので
なんとなく経緯を察することが
出来ますが

身体不自由になってしまった家族の
復帰を健常の家族がどれほど願っていても
復帰までの協力は
家族の手なくしては
成り立たちません。

お互い人なので
いつもご機嫌で
居られるとも限らないし。

家族間のことは
中に入ってみないと
傍からでは
まったく分からないものですが
もし家族間で
気が合わず
そこへ
健常のご家族が
日常の生活を
優先したならば・・・。

ちなみに
母の知っている方のご家族は
複数名おられるそうです。

自分が母の歳になった時
どんな環境に居るのかは
難しすぎて
想像出来ませんが
どうして居たいか、は
よく考えるようになりました。


;支援する側の経験を通じて。

母は介護に
含まれないと思いますので
支援でしょうか。

支援、介護
される側。
する側。

私は今は
’する側’に居ます。

この経験を通して
強く感じた
する側の私の考える大切なことは
これらです。

情報; 支援する側、される側の経験者から教えられることは命綱くらい必要な情報です。天国か地獄か、くらいの差を生んでいると思います。

母と私; 距離感。共依存関係の線引きが難しいからこそ。豊かな心持で常に居たいです。

母に出来ないハード面; 行動を予測して回避できることを先にする。先回りの精神です。

私の気持ちのリセット; 仕事や第三者との関わり。相当大きいです。

お金; 仕事。お金はいくらあっても無駄にならない気がしています。ありすぎは家族でもめそうなので、その場合はひっそりと。

心の支え; パートナーや趣味の家庭菜園やお買い物、美味しいものを食べたり。猫ちゃん飼いたいです。

大きな分類分けするとしたら
これが
私を支えている肝です。

母のケアが始まり
怪我前と今との比重は
大きく変わっていますが
どれが欠けても
バランス崩しそう。

母には、酷な話ですが
退院できたチャンスを
無駄にしないで欲しいと
口を酸っぱくして
伝えることも忘れずにしていますふらふら


母、大腿骨転子部骨折から1か月ブログ
終わり。




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次項有ビゼン公式HPbizenjapan.com
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