祖母が大好きだった
手作り田舎味噌。
話せなくなった祖母に
せめて香りだけでも
感じて欲しい。
施設のご配慮で
田舎味噌の作り方を引き継いだ母が
調理する機会を得た。
意思を伝えられないはずの祖母は
私たちの帰り際
涙を流し
見送ってくれたのでした。
この話は、
から続いています。
お日様が降り注ぐ
心地よい週末の朝だった。
私は休みだったので
妹ばあちゃんの隣畑や
いつもの家庭菜園へ、
あとは祖母に会いに行くため
いつもの田舎道を
走らせていた。
車内に
スマホの着信音が鳴り響いた。
何の件なのか
すぐ察しがついた。
いつもなら
穏やかな道のはずなのに
とても長く
遠い感じがした。
祖母は
プラスチックでできた
触れたら簡単に歪んでしまう
簡易的な酸素マスクの装着と
指先にクリップのような
機械を挟んでいた。
高めの枕に頭を置かれ
横になっていた。
ゼーハーゼーハー
ガラガラ
必死に呼吸をしていた。
全身の力を振り絞っていた。
ただただ、呼吸だけを
必死に身体がしていた。
話によると
2時間前までは
いつもと変わらぬ穏やかな様子だったようで
朝7時の巡回時に急変してしまった、とのことで
先に到着していた母と弟が
状況を説明をしてくれた。
一昨日は
回復しかけたと思えたのに
すっかり変わり果てていました。
私の弟は
祖母の指にはめられている機械の数値を眺め
「長くはもたないかもなあ。」
とつぶやいていた。
痛い経験を
何度もくぐりぬけている弟の一言には
怖いものがあった。
私は、おばあちゃんの頭や顔をなでた。
冷たかった。
必死に呼吸している姿は
今にも壊れてしまいそうで
見ていられない。
少しでも温かくしてあげたら
楽になれるかと
何度も何度もなでた。
手先も冷たくなってしまい
握り返してくれていた手は
まったく力を返してくれなくなっていた。
「苦しいね。大変だよね。よう頑張ってるよばあちゃん。」
何度も励ました。
きっと足も冷えているだろうから
と布団を捲り
靴下を脱がせようと試みた。
下半身がこわばっていた。
膝はまったく伸ばせないし
全身が硬直しているみたく
ピクリともしていなかった。
下肢には
紫色に変色したかさぶたの塊があった。
それは顔同様の症状だった。
覚悟を決めたかのように
私は祖母の耳元に近づけ
「頑張れるなら頑張って。もし無理なら
もう苦しまないでいいんだよ。」
「おばあちゃん本当にもう終わりなの?おばあちゃんありがとう。あなたの孫で私は本当に幸せだったよ。」
「おばあちゃんありがとう。あなたの孫になれて私は本当に幸せだよ。」
「お母さんは私が出来る限り支えるから心配せんでよ。安心してね。」
耳元で静かに、話しかけた。
何度も。
何度も。
2分くらいした。
荒い呼吸音が
穏やかになっていった。
周りにいたみんなの表情が
一時穏やかになった。
指先は
母と私のダブルのマッサージで
少しだけ温かかった。

画像;田舎味噌を作っていた時。
体調が急変してから慌てて買った
ムートンのブランケットを
折りたたんで
母、弟、介護士さんと4人で祖母を抱き抱え
身体の下に枕になるように
忍ばせた。
身体もこれで
少しは温かくなるだろうか。
呼吸が
しやすくなるだろうか。
小太りの
がたいの良かったおばあちゃん。
今ではすっかり痩せ細り
まるで子供のように
小さくなっていた。
この身体が
おばあちゃんを
ずっと支えてきたんだ。
ふと、足先に目をやった。
爪色が
紫色だった。
介護士さんに
なんのけなしに伝えると
表情がみるみる
こわばっていった。
静かに酸素濃度へ手を伸ばし
いつもなら穏やかなスタッフさんの表情が
変わった。
「今のうちに
会わせたいご家族がいたら
呼ばれてもいいかもしれません。」
伝え方はとっても温かく優しかった。
でも、表情から
その言葉の重みが伺い知れた。
大慌てで
出ようと準備をした。
おばあちゃんをお願いね!と
母と弟に伝えて。
すると
母が
私にしがみついてくる。
「だめだって!お願いだからお母さんは残らないと!おばあちゃんが寂しがるでしょ!」
母を叱った。
「私も行くの!」
と言って
暴れる寸前だった。
「急変したらするの?何かあったらどうするの?後悔したらどうするの?本当にどうになったらどうするの?」
母は、私から
ピタリ離れなかった。
母が崩れてしまいそうな
一歩手前の様だった。
弟にすべてを委ね
近くに住む親戚宅へ
車を走らせた。
母を乗せて。
お願い間に合って!と
何度も言い聞かせて。
親せき宅の駐車場で
母と待機してしまった。
こんな時に限って
親戚に来客があるし
お年寄りは
何かと準備に時間がかかってしまう。
仕方ない、待つしかない。
すると電話が鳴ってしまった。
弟からだった。
しばらく言葉が出なかった。
続いて、私を
後悔の念が襲った。
どうしよう
大変なことをしてしまった。
もう元に戻らない。
どうしよう!
「おかあさん、本当にごめんなさい。
大喧嘩してでも施設で待ってもらうきだった。
死に目に会わせられなくて本当にごめんなさい。
私はお母さんを止められなかった。
ほんとうに本当にごめんなさい。」
次の瞬間
母は泣きじゃくった。
「なぜそんなことを言うの。
おばあさんの死に目なんて
私には辛すぎる。見られない。そばにいれない。あなたは何も悪くないじゃん。」
必死にこらえていた
母の何かが弾けた。
まるで子供が全身をひくつかせ
泣きじゃくるように。
私は、親の死に目に会わないことが
人生で
もっとも愚かな行為だと
教わっている。
何があろうと
親の死に目だけは
立ち会わねば。
それが何よりの
親孝行だと。
でも、母は違った。
代々教えられてきた常識なはずなのに
それが当てはまらない人がいることを
その時に知った。
人の気持ちを逆なでてまで
貫くことの清さは
私にはまったく理解できなくなった。
そばにいる大切な人が
何を望み、どう在りたいか。
その人にとって
何がもっとも嫌なことなのか。
そこに寄り添うことのが
何より大切な行いなのではと。
「お母さんがそう思っていたなんてごめんなさい。
私、考えを改めるね。
だからお母さん、もう泣かないで。」
「わかった。」
と母は納得してくれた。
二人で
あふれでる涙を必死にこらえ
親戚のおばあさんたちを連れて
施設へ戻った。
**************
11月中旬の午前。
祖母は眠るように
息を引き取りました。
享年102歳。
弟は
そばにいてくれたようですが
あまりに祖母が静かに寝ているので
まったく気づかなかったようです。
何の気なしに
呼吸を確かめたら
動きが止まっていて
そこで初めて気付いたようです。
施設の方が
こっそり教えてくれました。
死に際は
人によってまったく違います。
吐血したり、
やぐるって(訳;もがき苦しむ)最後を迎える方もおられれば
穏やかに眠るように終えられる方など
その状態はさまざまだそうです。
何がその違いを生むのかは
専門家でも
分からないそうです。
祖母の場合
一時的に
苦しい時期があったにせよ
にっこり微笑んでいるような表情からは
少なくとも
静かに息を引き取れたと
物語っているかのようでした。
不謹慎かもしれませんが
祖母に挨拶をしてくれた方のほとんどが
顔を見るなり
表情が和らいでいったのが
とても印象的でした。
今すぐ起きてきそうな
いつもの
おばあちゃんの顔。
その日は
日曜日でした。
正直、これが平日であれば
家族みんなが集合し
ぱっと動くことは
まずできなかったでしょう。
休日だったからこそ
あれこれ迅速に動けたわけで
まるで
祖母が敢えて選んで
最後の日を決めたみたいに。
なんて
気の利いたおばあちゃんなの。
葬儀は
3日間葬儀場を
貸し切りさせていただきました。
祖母の身体が最後の日に
母に付き添い
葬儀場に泊まりました。
あの夜、
母は
ダイニングテーブルの椅子にかけ
物思いにふけたり
用意した布団に
一度も横になってくれませんでした。
夜中にはっと目覚めた時
母の姿がなく
広い会場へ覗きましたら
そこに母はいました。
ひな壇中央に置かれた棺桶前の座椅子で
一人小さく
座っていた母の後ろ姿。
今でもその光景は
脳裏に焼き付いています。
祖母と何か話せたのかなあ。

葬儀の日。
あれだけ引っ込み思案で
人前に出ることを避けたがった母が
額に入れた祖母の写真を
しっかり胸に抱き
みんなを誘導するかのように
一番先頭に立って
終始凛とした姿勢で
儀式に臨んでいました。
祖母と母の
目の前にあった壁が
いつの間にか消えてしまったかのように。
***********
祖母は大往生でした。
並々ならぬ人生を
102年も必死に生き抜いた祖母に
尊敬の念を抱いています。
と同時に
祖母の死を通じ
最期を
深く考えました。
昨今、
老いが訪れたら
老人福祉施設へ
お世話になる風潮に
なりつつあります。
施設を利用するきっかけは
老いだけとも限らず
内科による疾患や
外科による体の不自由をきたしたことが
きっかけもあるでしょうし。
中には
家庭の事情から
致し方なく
入られる方もおられ
この先
自分が施設へお世話にならないとも
正直言いきれません。
いずれにしても
家族それぞれが
目の前の暮らしに精一杯になればなるほど
施設の重要性は高まるものかと
思います。
利用した親族として
振り返ってみると
施設関係者の皆さんは
とても温かく接して下さり
祖母も
家族も
心から信頼を置いていました。
尊いお仕事だと
そばで見ていて実感しましたし
言葉では言い尽くせないほど
感謝の気持ちです。
医療ともしっかりと提携し
体制は万全でした。
ただ、どうしても
どうしても
腑に落ちない点がありました。
それは
日々衰弱していく人間に
なぜ予防接種を
しなければならなかったのか?
医療的行為をせざるを得ないのは
一体誰を守るための
手段なのでしょう。
それぞれの立ち位置に寄り添おうと
すればするほど
難題となり
何が正義なのか
私には答えが
見つかりません。
一時、それなりに持ち直したはずの祖母が
急変したのは
明らかに接種後だったので・・・。
でも、もう戻れません。
ただ、この経験が反動となり
最期の在り方を深く考える
大きな影響力になっているのは
確かなので。
最期をどこで迎えるか
もし選択できるのなら・・・
私なら自宅で
息を引き取りたい。
強く思いましたし
母とも
同じ考えに至りました。
もちろん、
祖母の場合
そうせざるを得ない状況が訪れたため
施設を利用したわけで
家族のために
手となり足となってくれた施設には
感謝しかないのです。
ただ
老い、だけの理由で
最期を施設で迎えために入る風潮に
違和感が募りました。
そうでなくても
身体が日々不自由になっていくばかりだし
さらに自由がそがれる上の孤独なんて
地獄以外の何物でもないでしょうから。
いざという時がいつ訪れるか
分からないからこそ
後悔のない日々を
自分なりに精一杯過ごす心がけはもちろん
何かあってしまった時のために
あらかじめ知っておくべき情報や
準備をしておくことは何か、
自分なりに動いておくことが
何より優先すべきことかと
痛感しました。
両親も
家族も
私も
今はピンピン元気です。
転ばぬ先の杖、だと思い
具体策を少しづつ
母と詰めています。
102歳の祖母の旅立ちがなければ
到底考えもしなかったです。
ばあちゃん
あなたはやっぱり
素敵な女性だわ。

さいごに。
これにて
祖母との別れを偲んで
の最終話となります。
しがない私の家族の物語の
拙い文章に
ここまでお付き合いくださった方には
御礼申し上げます。
どうもありがとうございます。
実はまだ残したい節が
少々残っていますが
いつか記事にするかもしれないし
しないかもしれないし
流れに任せようと思います。
祖母との別れ、
そして母の心の変化は
私には
とても重い家族課題というか
内容ではありますが
ブログにまとめたことで
気持ちの保存と
整理になったような
気がしています。
完


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