長男家の
長男夫婦の素に
養女として迎えられた母。
祖母は
天使ちゃん4人と
賑やかな育児に奮闘するはずだった。
ところが
みな身体が弱くて
大きくなれなかった。
母を残してみんな。
こういうのを運命のいたずら
というのかしら。
もし自分が祖母の立場だったら
乗り越える自信は
まったくありません。
でも、現実に起こってしまった。
悲しみを乗り越える苦痛が
どれほどのものなのか。
どのくらいの時間があれば
悲しみが癒えるのか。
祖母と母には
言葉ではうまく表現できない
氷のようなぶ厚い壁が
立ちふさがってしまいました。
長い年月を経て
さらに固く、固く。
孫の私から見ると
この氷の壁が目の前にあるまま
この世を終えてしまうほど
不幸な人生はないと思った。
だって、誰も
こんな展開を望んでいない、はずだもの。
それもある日を境に
少しづつ
溶け始めるのです。
話は、
から続きます。
この人の右に並ぶ人は
世にいるのかしら。
そう思えるほど
祖母は気が強く
思ったことをすっぱり言い放つ
御世辞をまったく言えない女性だった。
好きなことは好き。
嫌なことは嫌。
自分が許せない事態が起これば
怒鳴り散らし
興奮が止むのを
周りは静かに待つしかなかった。
食に対しても頑なだった。
祖父が他界するまでは
家には祖母と母の
主婦二人。
今で言う
二世帯住宅。
母は自分なりに
親孝行のつもりで
食の世話を試みたようだけれど
祖父ではなく
祖母が精進料理のような
食事以外受け付けなかったので
母の調理は
残念ながら合わない。
食事は祖父母とは
時間をずらして
摂っていましたが
ハンバーグや肉料理、カレーなどなど
母が私たちのために作った
今時の料理が並べられると
祖父は眺めては
つまみ食いしていました。
「買っておいたはずのあれがない!」
なんてわざと聞こえるように
祖父の前で
ちくり言う母が懐かしい。
私にとっての幼少期の食卓は
こんな感じで
賑やかなでした。
それも祖父が他界してからは
一変しました。
本家離れにあった納屋の2階を
自宅用に改装し
祖母は好んで
一人の生活を始めたのです。
大根と人参とはんぺんを
千切りにして
醤油と砂糖で煮つける惣菜。
南瓜も醤油と砂糖だけで煮つける。
瓜やスイカに塩を振って
それをおかずに並べる。
味はご想像通り、
飾り気ない
素材の味が活きた
素朴な味。
祖母は
その味がとても好きでした。
また、
米粒一粒に対する執着は凄まじく
たとえシンクに流れ落ちた米粒とて
「もったいない。」と
わざわざ拾って口に運ぶ。
大人になった今だからこそ
理解できる
食の執着は
戦争経験者であれば
誰でも身についてしまうのでしょう。
祖母は
食の大切さを身をもって
経験した人でした。
慎ましく
自分の畑で作った野菜を
大切に調理する。
近代のような
化学調味料や
レトルト食品の類は
まったく使いませんでした。
だからと言って
すべてに対して
ケチケチでもなく
時に着物、
時に車、
時に家具、
時に援助と
惜しげもなく与えてくれる
その面の豪快さは華麗だったなあ。
もちろん
お金をばらまくような散財とも違い
納得できる理由や
お祝いしたい時だけで
祖母なりの考えを貫いた上での
豪快さ。
締めるところはぎゅっと締め、
緩めるところは緩める。
それがはっきりしていた。
画像;初孫を抱く祖母

私は時間さえあれば
離れのおばあちゃんの家で
よく過ごした。
手料理をつまんだり
ばあちゃん菓子をつまんだり
一緒に昼寝したり
くっちゃべってはくつろいで
おばあちゃんが外出していても
同じだった。
私には
とっても温かい空間だった。
祖母の背中を見ていたら
慎ましさや
豪快さや
怖い顔、
あったかい顔、
どの顔もおばあちゃんで
私の一部になった。
祖母が
祖父家に嫁いでからの苦労は
先に記した通りですが
なぜ、あんなに苦労してまで
結婚を貫いたのか。
祖母には
他に求婚してくれていた別の男性がいたと聞いています。
もしその方と
一緒になっていたら
今とは違った穏やかな生活を
送れていたでしょうか。
そうなったら
私はいません。
妹さんたちは
口を揃えて話してくれました。
肉体的、精神的な
苦痛が絶えなかったり
自分ではない家族の理不尽な金銭問題絡みが
たまたま嫁いだ先に
渦巻いていたら
籍がある限り
避けられない。
家族誰かのわがままは
迷惑以外の
何物でもない。
どんな事情が絡もうと
それでも祖母は
祖父のそばを一時も離れることなく
傍からみたら波乱な人生でも
さいごまで見事に
結婚生活を貫いた。
本当に
本当に立派な女性だ。
画像;祖父と祖母の結婚

祖父が他界してから
自分の好きな時間に
好きな物を食べて
誰に気をつかうことない自由な暮らしは
祖母の人生の中で
一番幸せな時期だったのかも
しれません。
祖母がこの世を終えるその日まで
穏やかな時間が
続けばよかったのに。
でも、そうはなりません。
ある日、
本宅に顔を出さない祖母に
母は気づき
ほぼ離れに行かない階段を
登りました。
そこには
横たわっている祖母。
人が倒れるタイミングを計れたら
いいのにな。
そうすれば
早期発見出来て
後遺症なく
今の医学で
どうかしてくれるだろうに。
もしくは
一瞬であの世に行かせてくれたら。
その後の人生を考えると
一瞬で息絶えることが
どれほど幸せな終わり方なのかと
思えてならない。
祖母は転倒し
動けないまま長い時間
じっとしていた。
人は身動きが取れない状態でいると
美しい光景はない。
24時間以上
経過し、脳梗塞でした。
祖母は、若い頃から働き者。
50代になっても尚働きづめで
船乗りの免許を取得し
祖父を支え男顔負けに働いてきたというし
船を降りてからは
自宅で工場を始め朝から夜まで働き
引退してからも尚、畑仕事に勤しんだ。
身体を動かすことが好きなのか
根本は祖父のためだったのか。
とにかく動き詰め。
車は運転できなかったので
買い出しなら
片道1時間くらいの
徒歩はなんのその。
足腰は
人一倍丈夫だった。
そこに現代食を受け付けず
精進料理のような食事を
好んでいたので
そのせいか胃腸系も強かった。
それでも不調が出てしまった時は
庭に薬効ある植物をこいで
手を加え、患部に処方し
極力自力で治す。
画像;庭にあるドクダミ

画像;庭にあるツワブキ

その甲斐あってなのか
脳梗塞で退院した数か月で
80代半ばでも
見事な復活を遂げました。
肉体的には。
倒れる前は
祖母は日課をもっていました。
毎日、朝夕仏さんの
お経読みや
水の交換。
そして、定期的な仏壇の掃除。
畑も朝夕、毎日。
祖母にとって
毎日かかすことない
大切な仕事を
一切やらなくなりました。
ただ事ではないと悟った。
画像;仏壇の前の祖母

ベッドから
上がろうとしない。
脳梗塞で退院した当初
トイレだけは
自力で動いていたけれど
それも時期に
不自由になった。
人が生きる気力を失った時
老いのスピードは
恐ろしく加速を始める。
もし魔法の言葉があるならば
私は存分に使っただろう。
もし、祈ることで願いが叶うなら
ずっと祈り続けただろう。
神様、仏様に
願い続ければ叶うなら、ね。
人生にはどう努力を積んでも
思い通りにならない時は
必ずある。
脂肪、筋肉はたちまちしぼみ
身体は日増しに小さくなっていく。
本格的な
祖母の介護が始まった。
私はちょうどその頃から
故郷を離れ他県で暮らし始めたので
その渦中を見ていないけれど
帰郷すると
「おばあちゃんはああしているけど本当は動けるんだよ。」
と母はこぼしていた。
祖母が一人きりになった後
バッグや私物の位置が
移動しているらしい。
逆に祖母は祖母で
私を顔を見ては
「あいつ(母)は冷たいやつだ。」
と嘆いていた。
介護中、
どんなやり取りが起こっているのか
正直分からない。
老いていく自分に
祖母はイライラしただろうに。
イライラをぶつけられる母は
心が何度も折れただろうに。
優しく在りたくても
そう出来ない時も
人間だから、ぜったいにあるだろう。
母は必要以上の祖母のわがままを
避けるようになった。
祖母の生活に必要な消耗品、
好きなお菓子、
買い出しはまったく行かない。
自分の代わりに
デイサービスにお願いしていた。
母にも
いろんな思いが渦巻いていただろう。
母は、家族の誰にも悩みや
弱みを吐かなかった。
ぐっと飲み込み
自分なりの介護を務めようとしていた。
それもぎっくり腰になり
母自身が倒れてしまった。
画像;デイサービス中の祖母

自分の限界を知ってしまった母は
祖母の施設入所にサインした。
老人介護施設は
移住地も通帳も印鑑も管理し
すべての責任が
家族から移動する。
施設には
いろんな方がおられる。
気の毒でならない事情で
入居せざるを得ない方も
家族の誰も
面会に来られない方も
いびきが大きな方や
いつも大きな声で何か言っている方や
一癖二癖ある方や
本当にいろんな方たち。
その中にぽんと放り込まれたら
合わない方もいるだろうに
避けたい方もいるだろうに
でも、そんなわがままは
一切通用しない。
施設側は
入居者がどんな事情でも
平等に
介護しなければならない立場にある。
入居者がどれほど
寂しい思いをしていても
辛い思いを抱えていても
本人は、そこで
じっとこらえるしかない。
自分に死が訪れるまで
そこで、静かに
生きていかなければならない。
それが老人介護施設。
「家に帰してくれ。」
入所当初
祖母の嘆きは
私には重すぎた。
画像;施設での生活

孫の私が出来ることは
おばあちゃんに会いに行くことだけだった。
寂しくないように
祖父の写真を飾ったり
寝る場がなくなるほど
ぬいぐるみを買っていったり。
大好きなおやつの差し入れ。
時間がある時は
祖母のベッド横に椅子を用意してもらい
横で一緒に居眠りしたり。
本当にあったかい時間だった。
一日1分でもいい。
元気かなあって
会いに行く。
それが、精一杯だった。
母も時折、祖母に
会いに行った。
でも。
「はよ帰れ!」
「お前はおれの子じゃない。」
「お前は誰だ!」と
祖母は母にどなり
時に、唾を吐いて
追い払おうとした。
祖母の機嫌が悪い時は
私にも唾を吐くことがあった。
祖母は
施設へ入所して
101歳を超えていた。
そして、昨年
コロナ自粛。
自粛解除後は
面会を予約制にし
面会時間と面会人数の制限措置を
施設はとった。
祖母に会いに行きづらくなった。
春から夏が過ぎ
秋が訪れた。
おばあちゃんに会いたい。
会いにいかなくては・・・。
ある日、母と夫と買い物に行った。
そこには
1ケ500円の
あんぽ柿。
祖母の大好物だ。
あんぽ柿を買い
明日持って行こう
明後日持って行こうと
1週間が経ったある日、
実家に施設の方がいらした。
嫌な予感は
的中してしまった。
話しかけても
何も返答しない祖母。
「おばあちゃん!」
と大声で話しても
目が合わない。
右手、右半身は
ぴくりとも動かない。
私を握りしめたおばあちゃんの左手は
必死で上体を起き上がろうと
わずかな力を振り絞り
踏ん張っていた。
母は涙を一筋もこぼさず
祖母の耳元で呼びかけ
毅然とした態度でいた。
「おばあさんはまた元気に戻るから。」
「あのおばあさんだから。大丈夫だよ。」
「運が良ければ年を越せるかもね。」
自分にも投げかけるように
何度も何度も。
会わなくなって
10か月が経っていた。
介護士さん曰く
ついさいきんまで
話しは出来て
食べ物を口にしていたようで。
それが1週間ほど前に
「家に帰してくれ。」
「家のもん(家族)に連絡してくれ。」
「旦那(他界している)を呼んでくれ。」
何度も訴えてきたと言う。
ちょうどあんぽ柿を買った頃、
祖母は自分自身の健康状態が
おかしいと気づいていた。
なぜ買ってすぐに
会いに行かなかったのか
後悔だけが、深く残った。
変わり果てた祖母に
悲しむ間もなく
施設から
救急車を手配して処置を希望するのか
このまま見守っていきたいのか
家族の意思を求められた。
祖母は
飲み食いが
ほぼできない状態だった。
そうなると人は生き続けるために
点滴が命綱になる。
ところが施設は
看護士さんが在職されていても
そもそも治療を施す施設ではないため
点滴は一定期間に限られる。
その一定期間の間に
回復を遂げるか
奇跡が起こらない限り
まず長く生きられないだろう。
頻繁に会いに行っていた頃、
祖母は
「早くあの世に行きたい。」
「もう後悔はない。おれ(私)の私物も金も全部やるからもっていけ。」
必死に、何度も何度も
私に訴え続けてきた。
おばあちゃんがもし今話せたら
迷いなく、言うだろう。
私も、母も、弟も、
見守りをお願いした。
それ以降、
行ける日は1分でも
祖母に会いに行った。
静かに眠り続ける祖母を見ていると
「よお、きとくれたなあ。(よく来てくれたね。)」
くしゃくしゃの笑顔で起きてくれそうな
そんな錯覚をしてしまう。
数日後、仕事帰りに
私一人で向かった翌日
「なんで一人で行ったの。私に声かけてよ。行きたかったのに。」
と、こぼした母がいた。
私は自分の耳を疑った。
自分はもらわれた子だから。
自分はこの人の子じゃないから。
自分はいらない子だから。
真に受けとめてしまった母は
祖母との距離を頑なに置き
自分自身を守ってきた。
そんな母が
「あんな姿を見てしまって、怒りや憎しみはどこかへ消えてしまった。」
と。
私は、驚いてしまった。
4話に続く。
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